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アルコール依存症の家族が見た「ウォルト・ディズニーの約束」

ウォルト・ディズニーの約束」という映画を観たので感想文。

D23 Expo Japanでみたこの映画の一部のシーン。
トム・ハンクスは、声や背格好は違うのに表情や仕草はウォルト・ディズニーそのものだった。
私はパメラのことを何も知らないが、ミュージカルに心を動かすパメラはメリー・ポピンズだった。
あの日から半年、私は公開初日に劇場に向かった。

※以下、ネタバレしか無いので注意。
メアリー・ポピンズは原作小説、メリー・ポピンズはディズニー映画と分けて表記する。

物語は、現代(メアリー・ポピンズの映画化を迫られる作者・老女パメラ)と過去(オーストラリアで家族と過ごした幼女パメラ)を交差しながら進んでいく。

映画が始まり、子供の遊びに付き合うユーモアあふれるパメラ父があらわれた。
パメラ家族は、住み慣れた土地を離れて田舎に移住するらしい。
変わり者の父と心配症な母、幼い妹達、田舎町に移り住み、環境は変わっても素敵な家族と共に、パメラは幸せな幼少を過ごすのだろうと思った。

汽車に乗り、旅立つ家族。その時、パメラ父はスキットル(酒用の水筒)を取り出した。
私はなんて映画を見に来てしまったんだろうと後悔をした。私はこんな気持を思い出すために劇場に来たわけじゃない。
パメラの父は私の夫と同じくアルコール依存症で、パメラたちは今後、羞恥と貧困に囲まれた辛い生活が待っているのだ。
幼女パメラを乗せてまっすぐと進む汽車は妙にCGっぽくて、2014年の私の意識もその世界へ連れて行かれたように感じた。

おそらくメアリー・ポピンズはパメラのそんな過去を、昇華した作品なのだろう。
しかし、老女パメラは、お金に困っているのにもかかわらず次回作を書かないと代理人に責められていた。昇華しつくしたわけではないらしい。
あぁ、幼女パメラのトラウマは老女パメラにも傷を残しているのか。私は絶望した。
若き日のトラウマは、アルコール依存症の家族としてすごした数々の思い出は、時が解決してくれるものではなく、これからもずっと、老いて朽ちるまで、この苦しみは消えない。逃れることはできない。
マジかよ。辛いな。死にたい、いや、生きるけど。しんどいな。まじかよ…。とにかく絶望した。
パメラの記憶が朦朧として、メリーポピンズのセリフを、パメラ父が語り出すように、この映画が私の記憶と交差していった。

その後も、メアリーポピンズ(家族との思い出)を守ろうとする老女パメラの葛藤と、過去の思い出が描かれていく。

やはりパメラ父はアルコール依存症だった。
環境の変化に耐えられないパメラ父の体をアルコールが蝕んでいく。そして、その父が家族を蝕んでいく。
でも、パメラやその家族はパメラ父を愛していて、パメラ父もまた家族を愛していた。
憎むべき対象を愛していることの辛さは、幼女の心に深く深く刺さり、老いてもなお、苦しみ続けている。
…と私は思った。実際は知らない。
パメラはパメラ父を愛していた、たくさんの苦労はしたはずだが、パメラ父のことを憎んでいたのかは知らない。
ただ、大好きな人を純粋に受け入れることができない環境だったのだと思う。

そしてついにその時がきた、アルコール依存症の家族の多くが体験しているとアレ。
どんなに時間がたってもフラッシュバックして、私を苦しめるアレ。
パメラの父が、スピーチの直前にアルコールを飲んで泥酔した。
幼女パメラが、いなくなった父を探し、酒場で見つけた瞬間はひどく恐ろしく、私はがたがたと震える歯が鳴らないようハンカチを噛み締めて、劇場で身体を丸めて泣いた。
その後、泥酔したパメラ父は、とても酔っぱらいらしいもっともらしくワケの変わらないスピーチをして、本来ならわかることもわからない不明瞭な思考のまま、幼女パメラを壇上にあげ…そして倒れた。
そんなことは夫の生前何度もあった、そのたびにつらかった。恥ずかしくて、憎らしくて、自分の心が黒いものでいっぱいになるような気がしていやだった。
ただ、いじめで教室や全校集会で辱めをうける事と違うのは、そのいじめっこは大好きな家族で、酔いが覚めると笑いかけ、そして自分のことを愛してくれているということだ。
ふとした時にあらわれる辛い記憶は、私をひどく暗い気分にさせる。
映画で描かれている思い出し方が、妙にリアルで、泣きつくした私は抜け殻のようになってスクリーンを見つめていた。

アルコール依存症の末、病に倒れるパメラ父。
現代の日本ではそのタイミングで病と依存症の治療に入ることが多いらしい。そして、一部のアルコール依存症患者とその家族は、残された時間が少ないことに気づく。
(もし、いつかこの文章が、アルコール依存症かも?と悩む人のところに届いたら、今すぐに病院を受診・入院させることを選択肢に入れて欲しい。)

倒れてもなおアルコールを求める父、アルコールを隠す母、苦しむ父を見てアルコールを差し出した幼女パメラ。
この時の幼女パメラは、自分が渡したものが何なのかを理解していないのかもしれない。
しかし、きっとこの行動がまたパメラの心を傷つける。
自分のせいで、さらに大好きな父を苦しめてしまった…それは違う、でも違わない、理性と感情にもまれて、一生苦しんでいく。

アルコールを飲んだことを知った母、母に失望される幼女パメラ、乳飲み子を置いて死に急ぐ母。
物語の中では、飲酒に気づいたことで絶望しパメラ母を自殺(未遂)に導いていたが、現実では時系列が違うらしい。
パメラ母が自殺未遂したのは、パメラ父の死後数年後。
時系列は違えど、貧困と家族を守る重圧に耐えられなくなったパメラ母と幼い妹達の母親代わり(あるいは、子供であることを許されない、大人として行動することを求められる)という役割を与えられる幼女パメラの図は変わらないのかもしれない。

パメラ父が食べたいといった洋梨、幼女パメラが買って帰ってきた時、父は亡くなっていた。
これは全て私の想像なのだが、幼女パメラは「もし、洋梨を届けられていたら、父は死ななかった」と考えたのではないだろうか。
親類の死を迎えた子供は「自分が悪い子だったから、親類が死んだ」と思い込むことが多いらしい。それはとんでもない妄想の結果であり、事実とは異なる。
親類の死を迎えた子供には、あなたは悪くない・あなたの行動と死は関係はない・眠りと死は違う・眠ってもあなたが死ぬことはないといったことを、周囲が気にかける必要があるらしい。
大人でも考える「もし◯◯だったら、死ななかったかもしれない」
そんなことはないと理解できる大人、大人になってそんなことはないとわかるのかもしれない。しかし、理解できたとしても、感情は消えない。
自分を責める必要はないと友人はいってくれるけれど、責めることをやめられない。自分を責めて、自分が悪者にならなければ、大好きな人が悪者になってしまう。大好きな人をいい人だったというのは世界中で自分だけなのに、自分がそれをやめてしまったら…。
もし◯◯だったら、◯◯することはなかった。
いつまでも「でも」「もし」「あの時」・・・ifは消えずに、ありえない未来を描いて、心が枯れていく。
幼女パメラの心を守る人は、彼女のそばにいたのだろうか。

パメラの心を守るのは、メアリー・ポピンズ。
そして、パメラはメアリー・ポピンズを必死に守ろうとしている。

ウォルト・ディズニーや運転手との関わりの中で、老女パメラの心はほぐれていく描写が、あまりピンと来ない。
時間が経過し、様々な人と関わっていくなかで、黒く染まったトゲトゲとした心が丸くなっていくことを感じることはあるが、染まった色はなかなか戻らない。癒やされても根本はちっとも解決していない。
しかし、老女パメラは言う。障害があっても成功した人はたくさんいると。
障害を抱える人の中に、彼女は自分をカウントしているのだろうか。

メアリー・ポピンズに固執する老女パメラに、寄り添うウォルト。
パメラのMr. Banks(トラウマ・傷)に気づいたウォルトは、自身のMr. Banksについて語る。
辛いのは自分だけじゃない。似たような、あるいは異なる内容でも過去に傷つき悲しんでいる人はいる。
そのことは知っていて、世の中そんなもんだよとお互いの傷をなめて、どっこい生きている。でも、弱っている時の共感による交渉って効果的だよな…なんて思っていた。
が、しかし…

「でも、悲しませるための話じゃない。」
あっ、この映画、悲しい話じゃなかったんだ… とても驚いた。

「もう、自分を許してあげてもいいんじゃないか。」
ウォルトの言葉で、憑き物が落ちたような気がした。

あのつらくてつらくて、でもちょっと楽しかった日々を、楽しかったと言っていいんだと思った。
あのどうしようもない人を、それでもやっぱり愛していたなぁと言ってもいいんだと思った。
なんていえばいいか、よくわからないのだけど、責めるでも咎めるでもなく、受け入れていいのだと、そんな感じ。

悲しかった思い出と一緒に、蓋をしていた楽しかった思い出が溢れてきて、救われたような気がした。

私にとっては、ショッキングな映像の連続だったため、観賞中の記憶はとても曖昧で、勘違いや誤りも多いかもしれにない。
この映画が、ドキュメンタリーでも、ちょっとフィクションでも、ほぼほぼフィクションでも、完全にフィクションでも、どうでもいい。

Saving Mr. Banks
誰でもない私の心を救う物語だった。

そしてとても残念なことに、せっかくディズニー映画の製作過程が描かれた作品だったのに、私はスタジオの様子をほとんど覚えていない。
これらの感想は、きっととても偏ったものなのだろう。